詩作33

-No.53 「石巻」

鉄道にのりました
鉄道はもうこれ以上いけない所まで連れてってくれました
駅の先へ私は歩いていきました

私は人の歩んだ道を歩いていきました
人の歩んだ道はなくなりました
私は何もない地面を歩みました

そうして初めて
人の気持ちが分かりました
私は泣きました
私は恥ずかしくなりました

私は私の偉大性を信じます
私はあなたの偉大性を信じます
私は生きる意味を見出します
私は世界を美しくみることができます

 

シンゴ・クリハラ

何をしないか

 

何を解決するのか。何をしないか。この2点がとても大事です。

 

複雑にするより、単純にする方が、よっぽど大変です。その大変さは、量的問題であると同時に質的問題でもあります。というのは、質的にある一定の水準に達しなければ、いつまでも複雑なものを複雑なままに放置してしまい、結局、膨大な量的問題に悩まされるからです。

 

そこで、因果の矢印を自分に向けてみる。因果の矢印を本当の意味で自分に向けることは難しい。俺の責任です、と言うのは易しい。

 

真に因果の矢印を自分に向けた結果として見えてくるものは何か。それは、論理的問題というよりは、自分の中の倫理的問題、感情的問題を大きく孕んだものであることが多く、そういった類の問題を、この人間社会ないしは所属集団・組織において、シンプルに分解して、シンプルに表現する。

 

そういうことを、細かな意思決定プロセスで繰り返していくこと。

 

 

シンゴ・クリハラ

間違い

 

自分の中に強烈な興味関心対象があり、明確な意図と機智、優れた人間洞察力を全面的に活用し、それを表現すれば、多くの人々にも、その意義を理解してもらるのだろうと考える方が正しいのかもしれません。

 

大衆は理解してくれない、と言ってはいけないのでしょう。突き破るべきは、個人的な価値感が、人類普遍的価値へと繋げることなのでしょう。

 

シンゴ・クリハラ

何度も通り過ぎていた

 

これまで何百回も何千回も、自分が好きな「あの主題」の近くを通り、そしてその度に喜びを感じ、楽しんだであろうに、僕の内面が乏しいため、自分に自信がないため、自分の感動をきちんとはかれず、それを無視し、すでに評価を得た他人の趣味を受け入れてしまっていたような気がします。

 

自分だけの主題を探し出し、それを追求し続けることは、素晴らしいことです。でも、そこを見続けなければ、直ぐに忘れてしまう。また、自分の内面を育み、自信を成長させなければならない。

 

自分が熱中できる「あの主題」に向かって、絶えず努力をする。その努力の過程で、技術が身につく。技術そのものへの敬愛ではなく、目的ありきの技術愛が重要で、その技術が「あの主題」を現実化させてくれるのだろうと思う。その時の快感たるや!!

 

あの主題。それは人それぞれですが、そこを見続けたいものです。そして、大勢の人々が、あの快感を得られんことを。

 

 

シンゴ・クリハラ

 

冥土の土産って何

 

いつか自分は死ぬってことを考えてもすぐに忘れてしまったりする人が多いのではないでしょうか。僕もそうです。

 

でも、やはり人は死にます。当たり前だけど、自分も死にます。何もなくなるっていうか、全てが無になるっていうか。だから、生きている時にどんなに頑張っても、それは自分の中に残るわけではありません。だって死んだら、自分という存在がなくなるのですから。自分の頑張りは、表面的には(生きている間は)自分のためであることは間違いないでしょうが、最終的には、自分が死んだあとに残された人達のためにならざるを得ないって言える。

 

だって自分が死んでいなくなれば、自分が頑張ってきたことは何も自分に帰ってこないのだから、自分以外の人にいってしまうでしょう。でも、その人だって、いつかは死ぬわけです。そうすると、次の人へ。でも、その次の人だって死ぬんだ。その内に、僕の頑張りや残したいことは歴史の陰に忘れさられるのだろうと思います。でも、みんなに忘れ去られようが、なんだろうが、確かに人々の間を駆け巡るのだと思います。

 

そんなことを考えていると、極論、歴史上偉大な人と呼ばれる人であろうが市井の人であろうが、全人類の生きた証は、歴史的のどこそこに必ず残っていて、そこに意義を見出せる余地はたくさんある。

 

どうせ冥土の土産に何かを持っていけないから、人のために何かを頑張りなさいっていう理想論者的な話ではなく、自分の行いは全て歴史に刻まれて、それが早かれ遅かれ、人に影響を与えるということです。

 

僕は死ぬことを考えると、どうしようもなく恐怖を感じることがあるし、どうしようもないほどに生きる情熱を感じずにいられなくなるときがある。

 

とにかく、死ぬということから目を背けずにいたいと思います。

 

 

シンゴ・クリハラ

人モノカネは並列ではないことについて

 

人モノカネの前提は、人とモノ、カネを同列の関係で考え、それぞれを別個に論じるべきだと言われているような気がしてなりません。でも、それって本当に正しいのか。

 

人には技術力があります。人には情報を収集・編集する力があります。人には生産する力があります。人には構想する力があります。人モノカネではなく、とにかく「人」がモノカネよりも概念的に優位であると思う理由はここにあります。

 

 

 

技術は有形・無形であれ、プロダクトを生み出します。情報は競合を出し抜くための材料にもなれば、来るべきトレンドに乗れるきっかけになります。生産によってプロダクトはお金に変換されます。構想はビジョンを策定し、進むべき道筋を示します。人によってしか、モノもカネも生み出されないと思います。

 

人モノカネという経営観で色々と事業を語ってしまうと、特にスタートアップでは痛い目に合う気がします。

 

 

シンゴ・クリハラ

心の浄化

さて、8月1日から入社ということで、第1次フリーランス期最後の1週間ということで、7月24日~7月31日までは、アートフリークでした。

まず、日光東照宮へ、そして日光東照宮宝物館、次に歌川広重美術館(栃木県)、次に歌川国芳展(東京都)、加えてクレー展(東京都)、そんでイェッぺ・ハイン360°展・Inner Voices展・artzine展(金沢)、最後はアートフェア(東京都)。

いやぁ、最高な1週間だった。ただ、芸術品に触れるって心が洗われると同時に荒らされたりもして、かつ集中力も使うので、頭が疲れます。

脳は疲れたけど、本当に良かった。

芸術ってのは、その作品の背後にある作者の孤独と信念の強度や美への異常な拘りを感じることができます。そうるすと、自分の到らなさを痛感することができて、心が浄化されます。同時に行動へのモチベーションを与えてもくれます。

自分にとっては、歴史も哲学も芸術も、心の浄化とモチベーションの喚起作用という意味では、どれも似たようなものです。

これから自分は、業界の関係上、時局的な流れをキャッチし続けなければいけません。しかし、こんな時だからこそ、定期的に、歴史・哲学・芸術に触れる機会を確保しなければならないと思います。

シンゴ・クリハラ

自我を捨てる努力

 

孤我に自身の理想を追求する。もちろん、そこには大いなる決断と覚悟がある。そういう人が好きだし、偉大だと思うし、自分もそうなりたいと思う。でも、自分は、直ぐに安易な方向へ向かう。向かうべき方向性のセンスも良くないかもしれない。

 

僕は表現者として生きる態度に恐れと思慕を併せ持つ。恐れの源泉は、僕の今までの自我を守ろうとする所から発する。思慕は、芸術家たる人々への憧れ。自我を捨てれば、今までの自分の価値を捨て去る分、自身の表現者としての価値を自分の中の器に落とし込めるのかもしれない。逆説的だけど、自我を捨てることで、本当の意味での自我を追求することができる、みたいな。

 

それと、いまいち僕は、世の中の表面的な事実と深層的な事実の価値の分配具合が分かっていない。この分配具合に納得を得られないから、革命的というか向う見ずな態度になってしまうかもしれない。そして、それで痛い目にあったりする。友人を見渡せば、自分のそういう性向は、ある種のイデオロギーであって、どっちが悪い良いとか、価値があるないの話ではないと客観的に理解できるのだけど、やっぱり自分の問題となると、毛嫌いしてしまうのだ。

 

しかし、この宗教観にも近い、この深層重視の性向を、もうちょっと大事にしようと思う。そうでもなければ、自身の理想の追求も何もありゃしないのだから。

 

シンゴ・クリハラ

賭け

 

人生は賭けです。

 

歴史を知ることで、世の大きな流れを予測することはできるかもしれません。でも、だからといって、仮に世の流れを予測できたとしても、自分の人生が自分の満足のいくようになるかどうかは分かりません。なぜなら、自分の人生の成功の定義は、世の大きな流れと無縁であるかもしれないし、世の流れと自分のタイミングが合わないかもしれないからです。つまり、私の成功を担保する「何か」は、原則的にはない。人生は賭けであると言う所以はここにあります。

 

そうとは言っても、僕は世界の歴史を知りたいと思うし、科学的思考を大事にしたいと思う。それは、極論すれば自分なりの人生の成功を何とかして導きたいと思うからです。自分の人生を成功させるとは、自分のこの先の人生の在り方を描き、その方向性へ進もうと現実社会を切り抜けようとする営為であります。そして、歴史を知ること、科学的思考を大事にすることが、その営為においての参照材料となると考えます。

 

では、なんで、「賭け」である人生において、そんなことをするのか。結局、歴史を知ろうが、科学的思考を大事にしようが、人生なんて「賭け」であるのだから、だったら、変に努力せずに、やりたいようにやればいいのではないか、と。

 

この質問に対して、僕は、そこに「合理的基準」を示すことはできません。言えることは、本気かどうか、ということくらいです。

 

つまり、本気で賭けているか、否かの違いだということ。みんなも、もっと人生の賭けに出よう。