詩作26

-No.44 「同一化」

僕の人生は嘘だった
僕の人生は嘘だった
僕は人生を嘘 にした

次から次へと
めぐり合う
新たな尊敬人探しては

同一化するだけの
人生は嘘だ

同一化願望を打ち切る

しかし、僕は彼らを愛したい

愛することは同一化することではなく

あなたの人生の
あなただけの真実と
あなただけの創造を
認めることではないか

だからこそ、愛を育むために
自分の人生に
自分だけの真実と
自分だけの創造を
掴むのだ

僕は僕を愛している!!

だから、僕はあなたを愛している!!

 

シンゴ・クリハラ

表現欲求

 

表現欲求は自分の存在そのものを知らしめたいと思うからこそ湧き上がるものです。自分という存在に肉迫した時に、人の存在に肉迫した時に、ありとあらゆる存在を掘り下げた時に、表現欲求は喚起されるような気がします。

 

それは、人によって相対的に決まってきます。ある人にとって、そこが肉迫した先であれば、それは表現欲求の対象とならないかもしれませんし、あるいは、単に興味対象ではなくて表現したいと思わないのかもしれません。

 

僕は、何にせよ、今、表現したいと思うのは、自分の中で自分という存在を掴みたいと思っているからなのだと思います。

 

シンゴ・クリハラ

自己教育

名門の大学を出ていようが、良い家庭の育ちだろうが、そのことが、本質的に、その人の教育に影響を与えるわけではないように思えます。

 

教育とは自己教育以外に方法はなく、私達が、日々想像している教育とはかけ離れたものです。自己教育とは、自分との対話です。

 

現代という時代は、自分との対話を良しとしない時代で、むしろ自分との対話を無駄なものとさえ考えてきました。しかし、自分との対話の中で育まれる自己教育を成し遂げられない限り、人間としての器は広がりません。この器を育むことこそが、人が生きる上で、もっとも重大な点ではなかったか。

 

器の小さな人からは、器な小さな発想しか出てきません。大きな器は、偉大な発想を生み出します。

 

器は自己教育の産物で、その人の魂であり、源泉です。知性や技術は、この器を盛る装飾です。あくまで、知性や技術は道具です。

 

器の大きさはやがて、人間の顔へ収斂されていきます。この写真のように。。

 

 

シンゴ・クリハラ

何度も通り過ぎていた

 

これまで何百回も何千回も、自分が好きな「あの主題」の近くを通り、そしてその度に喜びを感じ、楽しんだであろうに、僕の内面が乏しいため、自分に自信がないため、自分の感動をきちんとはかれず、それを無視し、すでに評価を得た他人の趣味を受け入れてしまっていたような気がします。

 

自分だけの主題を探し出し、それを追求し続けることは、素晴らしいことです。でも、そこを見続けなければ、直ぐに忘れてしまう。また、自分の内面を育み、自信を成長させなければならない。

 

自分が熱中できる「あの主題」に向かって、絶えず努力をする。その努力の過程で、技術が身につく。技術そのものへの敬愛ではなく、目的ありきの技術愛が重要で、その技術が「あの主題」を現実化させてくれるのだろうと思う。その時の快感たるや!!

 

あの主題。それは人それぞれですが、そこを見続けたいものです。そして、大勢の人々が、あの快感を得られんことを。

 

 

シンゴ・クリハラ

 

内部の歌

 

冒険したくてたまらなくなったり、旅をしたくてたまらなくなったり、研究をしたくなったり、無性にそういう風に思う事があります。

 

それは、過去に、冒険や旅、研究という行為をふむ中で、自分の体の内側から歌がながれてきたからです。そんな風にしか表現できませんが、あの自分という存在さえ気にならずに、ただただ、その経験そのものと一体化していく中で、自身の人生の中で最も心地よい歌がながれています。

 

その歌は一瞬ですが、一生、その歌を渇望せざるを得ません。その歌は知性というよりは感性で聞くものです。

 

僕は、小学校の頃に、校庭の誰もいかないような場所へと赴き、ひたすら土を掘り返したり、大きな石を裏返したりしていました。それは、僕にとって、偉大な冒険でした。僕は、誰もいない校庭の石を裏返した時に、大量のアリと大量のアリの卵を発見しました。その時、自分は直観的に、この世はアリが支配しているんだ、と確信しました。世界の秩序は全てアリに基づいていると直感しました。その時、僕の体の内部からは歌が流れました。

 

いや、世界をアリが支配しているかどうかなんて知りません。でも、歌が聞こえたことが、僕にとっては大事なんです。あの体験を忘れてはいけません。

 

常に、旅や冒険、研究は終わりません。

 

シンゴ・クリハラ

 

大事にしなければならないこと

 

人が生きる上で何が大事か、を考えます。そして、それを自分に問います。結果、大事だと考えたことと自分との間に秩序があればいいと思います。

 

人が生きる上で大事なことは極論下記に行きついてしまうのだと思います。

 

それは、それが人間として、人類史的に考えて、正しいのかどうか、ということです。人類史的とか難しい言葉で語ってしまうのはいけないのかもしれませんが、安っぽく道徳心という言葉で片付けてもニュアンスが伝わりづらいかもしれません。その考え方は、人類にとって良い考え方であるのかないのか、この基準に適うものかどうか、です。

 

こういうことを言ってしまうと、現実を考えていない、と言われるかもしれません。いや、言われます。もちろん、人は今を生きるため、10年後を生きるために、特にお金を必要とします。そして、特に、お金は人類史的あうだこうだということと関係がないのが現実です。つまり、生きるために必要なお金と関係のない理念を語ることは、すなわち現実を考えていないことだ、ということです。

 

 

一方、もう1つの現実は、一昨日の記事でも書きましたが、人は死ぬということです。人は死ねば、自分のお金だのなんだのという概念は消滅します。自分が一生懸命になって買ってきた色々な物品等の財産は、死ねば自分の手から離れる、という結末も一方で、確かに現実としてあるのです。だから、今必要なお金はどうでも良い、ということではありません。そういうことではなくて、最終的には、所有物という概念など無くなり、自分のことなど、みんな忘れるのです。

 

 

僕は、世界は芸術的精神を持った素晴らしい人達によって、徐々に改善されていくのではないか、と楽観視している節があります。それは、芸術的精神を持った人が優れた結果を残そうが残らなかろうが関係ありません。芸術的精神とは、人類を良くしていこうとする生き様です。そういう人達の生き様は、彼が偉大な業績を残そうが、市井の人であろうが、死後、誰かが彼の生き様を語り始めます。

 

 

先ほどの話に戻ります。結局、自分の財産等は、死後、必ず消滅します。一方、人の芸術的精神は永遠に語り継がれて、いつでも復活します。

 

 

だから、結局、人類というのは芸術的精神がうまくスクリーニングされて、各世代に継承されていき、徐々に崇高な精神が時代に沿った形で落とし込まれていくのだと思います。

 

 

シンゴ・クリハラ

 

フロー体験は意外にみんな経験している

 

 

例えば、小学校や中学校、高校あたりの部活。文化祭や体育祭、球技大会。とにかく、めちゃくちゃ努力して、その努力が何らかの成果に結び付いた時の感情・感覚とか。一緒に努力してきた仲間と、抱きついて喜んだり、走り回ったり。

 

そこに比較なんていう概念はなかったと思います。ただただ、その行為に没頭し、その行為の没頭の成果が良かろうが悪かろうが、感情が爆発してしまう。泣いてもいいし、喜んでもいいし。

 

そういう感情を導く行為を大切にしたいです。

 

 

シンゴ・クリハラ

ツリーオブライフ

 

映画ツリーオブライフを観ました。

 

自分は、これまで、あのような映画を観た事はありませんでした。

 

解釈の可能性は多様であると同時に、強烈なメッセージもある。

 

人間の生の営みを詩で表現するように、映画という方法で人間の生ないしは生命を詩的に表現した映画でした。

 

自分が個人的に感じたメッセージ。それは、若い頃に強烈な影響を与えた親の存在、兄弟の存在、友の存在は、ずっと私達を規定し続けるということ。私達が、この規定性を垣間見た時にほどばしる悲しさと喜び。葛藤を呼び起すこの規定性の連鎖によって、文化ないし生命は発展してきたのかもしれないということ。

 

是非、色んな人にお勧めする映画です。ただし、ダメな人にはダメな映画だと思います。自分は、もう1回観ようと思います。

師の2類型

 

圧倒的な個性と力量を備えた人には、恍惚な魅力と恐怖感があります。

 

その魅惑に魅了された人々は、彼の周りに群がって、一団を形成します。

 

その一団は彼を祭りあげます。彼は、相当な力量の持ち主だから、自分が一段に祭り上げられていることも承知ですが、気持ち悪くもないから、親分になります。

 

一方で、はなっから祭り上げられることを嫌う、圧倒的な個性と力量を備えた人もいます。この彼は自分を取り巻く一団形成を嫌い、個と個の関係に価値を見出します。この彼は、親分というより孤独者です。

 

あなたの師匠は、親分タイプか孤独者タイプか。それによって、自分自身の生き方が少なからず影響されているような気がします。

覚悟

 

「応援したくなる企業」の時代 という本をパラパラと読んでいます。この本の帯には、「売らない企業が生き残る」とも書いています。

 

まだ読み切った訳ではありませんが、内容の骨子としては、小手先のマーケティングや顧客に媚を売ってモノ(有形・無形問わず)を売りつける時代は終わったと。その理由は、単純で、生活者がこれまでの供給者(大企業・政府・大手マスコミ)のやり方に辟易としたから、ということです。

 

モノを売るために巧く上手く甘く説得さえできれば、生活者はモノを買うはずだ、という供給者側の生活者を嘗めた態度は、生活者に見透かされている。こういうことに、未だに供給者は築いていないわけです。

 

では、生活者は供給者の何を観ているのか。それは「覚悟」であると、思います。「応援したくなる企業」の時代 では魂の共感が大事だと言っています。魂の共感ってのは、要は、その供給者の「一貫性」「哲学・思想」「ビジョン」と行動の一致を生活者が観察した時に、感動するかどうか、だと思います。

 

そして、上記の「一貫性」「哲学・思想」「ビジョン」と行動を一致させるには、覚悟を根本としなければなりません。なぜなら、覚悟がなければ、そんな大層なことを行えないからです。

 

自分の信条を押し通すためには、たとえそれがお客であったとしても「断る」ことをしなければならないき局面が訪れ、その局面で自分の直近の生活を守るのではなく、自分の信念を押し通せるかどうか。そこに覚悟が問われます。

 

逆説的なのは、この覚悟を持てた時に、初めて、顧客から応援される供給者となれることです。営業マンは断ることを覚えなさい の真意は、結構深いのだと思います。

 

シンゴ・クリハラ